「展示会に行ってきたよ」のコーナー第1回に訪問させていただきました丸山暁鶴先生より、先生のライフワークであります心越禅師の寺院額の調査について、現時点での調査結果をまとめられた原稿を頂きました。先生より当サイト読者の方にもご紹介させて頂いて構わないとの了承を得られましたので、内容を掲載させていただきました。

話は横道にそれるが、楊守敬と松石山房に関連のある、日本書道史上欠く事の出来ない問題が有る。

明治十三年(1880)清国駐日大使何如璋が就任にあたり、随員として楊守敬を急遽呼びよせた。学者でも有る楊守敬は、たまたま清国内を調査旅行中であった。取る物も取り敢えず、資料や拓本類を持ったまま日本に直行した。携行した荷物の中には、一万三千冊の碑版・法帖・漢印など、当時の書家達にとっては、涎を流さんばかりの宝の山であった。

清国大使館は、連日日本の文人墨客の来訪で多忙であったと聞く。

巌谷一六・日下部鳴鶴・松田雪柯の三人は、早速出掛けて貪るように六朝書に傾倒し、六朝ブームを巻き起こす。一方印譜等についての指導も受け、松石山房にて原ツ印譜にまでのめり込んだと云う事である。

楊守敬は、その後数年間日本に滞在し、江戸時代から沈滞していた日本の書道界に、新風を吹き込んだ功績は大きい。(閑話休題)

元禄三年光圀の隠居願いが受理され、十二月から水戸に住む事になった。

心越は、この新年を迎えたよろこびを、次の歌に託している。

 

常陸帯 むすぶあか井の こほりしも はやとけそめて 今朝ははる風

我庵の 春とふ者は あら玉の としのはじめと 唯松の風

 

水戸に来て心越の入った天徳寺(現在の水戸市八幡町祇園寺)は、栃木県下都賀郡大平町に二寺ある大中寺(江戸時代跡目相続の内紛により二寺に分裂)のうち、大平町榎本の「金華林(こんげりん)太平山妙吉祥院大中寺」の末寺にあたる。この寺にも心越額が有ったと思われるが、火災により全山焼失。

心越は、水戸と江戸を往復するのみで、県外にはほとんど出ることはなかった。高崎の少林山達磨寺にも、開山和尚でありながら一度も行けず、開堂式を待たずに他界している。

栃木県(当時は下野の国)には、唯一度だけ光圀の意向を受けて、湯津上の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)(群馬県吉井町の多胡碑・宮城県多賀城市の多賀城碑と共に日本三古碑の一つ)の検分のため、元禄六年(1693)の七月に来訪している。

現在我々の時代感覚で、旅は隣県でも車で日帰りと云う現代の人には、想像出来ない時代である。芭蕉の奥の細道の三年後であり、光圀にして又然り、自国で水戸藩の内でありながら、この地を訪ねるのは生涯三度で、最後に国造碑を祀った笠石神社に詣でたのは、この前年の元禄五年、上下侍怩燒р゚戻した六月のことであった。

心越が来訪した下野への道は、那珂川ぞいの道を辿り、御前山村長倉の蒼泉寺で宿を取った事と思う。蒼泉寺には、心越揮毫の「南嶽山」の額が有る。後年喜連川藩主もたびたびの水戸訪問どき、この蒼泉寺に泊し、津村雨林と云うお抱え絵師を伴い、行くたびに杉戸や格天井に描かせた絵が、現在も色鮮やかに残されている。その数、百余枚、喜連川の饅頭屋の主人で、技術のほどは高久靄高ェ絶賛したと伝えられている。私が見た頃には、まだ栃木県では一部の作品をのぞいて、雨林の作品は幻と云われていた。

当時那珂川を遡る船は、黒羽まで通い船が有った。黒羽は、この辺一帯の物資の集散地で、廻漕問屋が軒を並べ、往時橋のあたりには人の出入りの賑わいが有った事だろう。

心越は、往路真直ぐ湯津上を目指し、那須の国造碑と侍怩検分し、黒羽の大雄寺(だいおうじ)に入り、住職廓門貫徹の出迎えを受ける。貫徹着任の折り、墨一丁と金扇を贈っている間柄であった。

一泊して、帰路再び立ち寄る約束をした心越は、八里離れた那須温泉に向かう。七月の暑い盛りの旅は、当時の五十五才(五十七才で二年後に入寂)の人にとっては大変な事と思う。(このあたりの旅程道順等は、心越のからだを考えた私の想像)

 

 

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