「展示会に行ってきたよ」のコーナー第1回に訪問させていただきました丸山暁鶴先生より、先生のライフワークであります心越禅師の寺院額の調査について、現時点での調査結果をまとめられた原稿を頂きました。先生より当サイト読者の方にもご紹介させて頂いて構わないとの了承を得られましたので、内容を掲載させていただきました。

      西明寺を下り、大通りを700メートルほど西進し、左手の細道を入ると、朱塗りの山門が見える。太平山(たいへいざん)自性院鶏足寺である。石川善克氏と、車を駐車場に入れて、「山門を見たら心越額が有った、なんてこと無いだろうな」と、笑いながら山門に近付くと、まぎれもなく心越額であった。今確認している約四十枚の中でも、めずらしい行書がきである。                                               本堂を訪ねると住職が居られて、山号の事で話をすると、大平町西山田の大中寺の末寺で、丁度益子町教育委員会から戻って来たばかりの風呂敷包をあけて、古文書を見せてくれた。石川善克氏は、古文書に精通しているので、二人で住職に云われるまま上がり込むと、殆どの文書が、西山田の大中寺からの物であった。

      大平町西山田の太平山天暁院大中寺、山門に「道林法席(どうりんほっせき)」が有る。この額が私の心越額追跡の原点である。文字は小篆、正に玉筋篆で書かれている。昔からこの額の存在は知っていた。この禅語を篆刻作品に使った事もあったが、東皐越杜多がわからなかった。                                      この切っ掛けは、大中寺の近くに大平町立歴史民族資料館(三上亮順館長)が有る。館の企画展「篆刻の美」の仕事を、栃木県内の篆刻家の協力を得て行った時の事が縁である。     額は山門と共に町の文化財になっている。門は徳川家康の命により、家康没後廃城になっていた、栃木市の皆川城の城門を移築したものである。                 大中寺は、七不思議が有名で、末寺の中には、四十七士で有名な高輪の泉岳寺がある。

      同じく大平町水代・真言宗如意山喜祥院延命寺の「如意山」が県内の七枚目である。まるで小篆の白文印を見るような、厳然たる文字姿である。                  この額は、まだ道林法席一枚きり知らない頃、私が入院中石川善克氏に、前から情報が入っている額だから、見て来て欲しいと頼むと、見て来た善克氏が「すごい」と唸って病室に入って来た事を、今でも思い出す。                            退院して早速、篆刻家の河野隆氏、石川氏等五、六人で見に行くと、当時の住職は「二〇〇年前にその辺の住職になりたくて、ふらふらしていた乞食坊主が書いた物だよ」と、噛み付くように云っていたのが印象的であった。

      藤沢市の大きな伽藍を有する寺では、ペンキで文字を塗り、東皐がわからないので別字に直されていた。

      京都の金閣寺でさえ、心越杜多の人物がわからず、私が行った事で心越の経歴を知った事を大変喜んでいた。

 

この私が確認した心越額の中で、栃木県の二つの真言宗寺院に三枚の心越額が存在するという事は、各寺院に古文書等の出現がなければ、永久に解明されない謎である。

三〇〇年という歴史の奥深さの中に沈み込んで、やがて忘れ去られてしまうのだろうか。発見と確認を急がなければならない。

心越が、日本文化の中に色々な事を残してくれた。楊守敬の六朝書と同様、一つの兆を与えた人である。世の中の全ての物事は、まず兆から始まるという事と、それを受け継ぐ人々が居る事の大切さ、それが文化を形作って今日を迎えた事なのである。  完

 

平成十五年七月

 栃木県書道連盟の依頼で、会報用にまとめたものに、会報スペースの制約外のものを付け加えたものである。

 

 

 

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